皇祖皇太神宮の由来
神宮は宇宙開闢の神皇 天地
身一大神(あめつちまひとつのおおかみ) (元無極體主王御神(もとふみくらいみぬしおおかみ))から 天御光太陽貴王日大光日大神(あめみひかりおおひなかきおうひおおてるひおおかみ)(またの名メシヤ)までの天神七代、天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみのしみひかりおおかみてんのう)から二十六朝千百六十八代、そして神武朝の現代までの代代の天皇、皇后を合祀したお宮でありまして 皇祖皇太神宮(すみおやすみらおおたましいたまや)と申し上げます。
本来は 天神人祖一神宮(あまつかみくにつかみはじめたましいたまや)と称して 天超根中国の皇城山(あまこしねなかつくにおみじんやま)(元宮が富山市金屋字平奥五六四三番地(呉羽山近く)に建立され、毎年八月大祭が施行されます。)に遷し奉祭されてありましたが、上古第十代 高皇産靈身光天都日嗣天皇(たかみむすびみひかるあまつひつぎすめらみこと)の御代に神勅があって、初代天皇以来千二百九十三代の今上天皇までを合祀し奉る神宮を皇祖皇太神宮、万国の五色人祖祖(いろひとおやかみ)(外国の国王、王妃、民主尊(みっとそん)ら)を祀る神宮を 別祖大神宮(とこおやおおたましいたまや)と改名されたのであります。(内宮外宮のはじまり)
代々の天皇は必ず、皇祖皇太神宮の大前で、自ら祭主となって大祭礼を行いたまい、即位された後、天津高御座(あまつたかみくら)に御せられ、南面し、手には万国棟梁(とうりょう)天皇としてなくてはならぬ神剣 神日本魂剣(かみやまとたましいつるぎ)を執(も)ち、身には天照日神の稜威燦(あまてらすひのかみみいつさん)として十六方に光り輝くさまを現した日輪章(菊型御紋章)をつけたまい、世界万国から集まった尊者民主(みっとそん)の祝賀を受けられました。
天皇が日本国だけの天皇となったのは神武天皇以後のことで、それまでの代代の天皇は一代に一度は必ず万国を巡幸(世界一周)されることを恒例とし天空浮船(あめそらうきふね)に乗って巡幸されながら、万国それぞれの国王、尊者、民主に謁(えつ)を賜り、任命されるなど光明赫灼とした、正に万国の棟梁、世界天皇でした。
神宮には上古第二十四代 天仁仁杵身光天皇(あめのににぎりみひかり)(五世つづく)の御代に懸族四社(護法守天空神、稲荷福主王神、赤池白竜神、五色商運神)をはじめ九十七狐王の魂も妃られました。
また、不合朝六十九代 神足別豊(かんたるわけとよすき) 天皇の御代にモーゼ、七十代 神心伝物部建(かんこころつとうものべたて)天皇の御代に釈迦、神倭朝初代 神武天皇の御代に老子、第三代安寧天皇の御代に孔子、第六代考安天皇の御代に孟子、第十一代垂仁天皇の御代にキリスト、第三十代欽明天皇の御代にモハメットとそれぞれ来日、参朝し、修業して帰りました。
このように皇祖皇太神宮は、特定の神だけを祀る神社(かみやしろ)ではなく、すべての神々を祀る神宮(たましいたまや)であり、ユダヤ教、道教、儒教、キリスト教、仏教、イスラム教すべてを包括する万教帰一の神宮であります。
神州日本に生きる民族としての誇りを堅持し、世界の五色人もまた皇孫であるとの秘史の教えにしたがい、祖宗を祀り、世界の平和と繁栄のためにつとめることが、神宮を奉斉する私たちの使命です。
宇宙開闢の神皇 天地身一大神(あめつちまひとつのおおかみ)(元無極體主王大御神(もとふみくらいみのしおおかみ))から天神七代 天日豊本葦牙気皇主身光大神天皇(あめひのもとあしかびきみのしみひかりおおかみてんのう)から現天皇まで二十七朝千二百九十三代にわたる皇祖皇宗の神々をお祀りする皇祖皇太神宮は、祭式 行事 礼法など一般の神道 神社と異なるところが多々あります。
そこで今回は、初めて参拝される方がまず疑問に思われる 「なぜこの神宮では四拝八拍をするのか」「なぜ組手のとき人指だけ立てるのだろうか」 ということからご説明します。
神前で拍手するということは、世界にその例がなく、日本神道のみに残されてきた古風ですが、これは人体のもっている陰陽の神気を勢い良く打ち合わせ、その瞬間に発せられる音魂(おとだま)をもって神招(からおき)する、又は神靈に語りかける、ということです。葛城山で一言主神は雄略天皇から御衣を渡されたときは拍手して受けられた、神もまた悦びの時は慶手を賜う-という記録もありますように、神様も天皇にたいして拍手されるというところに、私たちは深い意味を知るべきでしょう。
皇祖皇太神宮では、天津神にたいし四度拝八平手(伊勢神宮式 八開手という)します。これは四方結んで八方に開くという義であり、国津神にたいし二度拝四平手(出雲大社式)しますのは、天地を結んで四方に開くという義であります。(平手は百六十まで打ってよしという記録もあります)
また組手をしたとき、第二指だけを立てて剣の形に組みますのは笏(しゃく)にかえるということです。
笏はそもそも天皇が即位式をなさる(御親祭)とき先帝の左腕(肘から先)の長さの神剣をもって大嘗(おおなめ)の御祭(みまつり)をなされたところからきたものです。(現在は一位(いちい)の木でもって平板につくられ本来の意味が忘れられています。)
笏は祝詞(紹刀と書かれたこともある)奏上のとき弊にそえる-という記録もありますが、皇祖皇太神宮では、古式のまま破邪の神剣 をもって祭式をおこないます。
その笏が手近にないとき、この組手をもって代える-というわけです。
皇祖皇太神宮はわが国最古の神宮でありますので、他にない古式神事がそのまま残されています。とくに三年か五年に一度行われる鎮火祭(ひわたり)、毎年の大祭で奉納される探湯祭(くがたち)、毎月の月次祭や各種祭典で行われる鳴動祭(かまなり)はこの神宮の三大神事であります。
これらの神事は一般の伝承とは大いに異なるものでありますので今回はそのいわれを簡単にご紹介します。
まず鎮火祭は、一般には伊佐奈美命(いざなみのみこと)が加具土神(かぐつちのかみ)をお産みになり夜見国へ引篭られるときの教えによって後代宮城の四方で年二回行われる(ホシヅメマツリという)火難防除のお祭りとされていますが、これはヒワタリをしません。また火渡りも教派神道の一部や修験道阿蘇神社などで松薪でおこなわれますが、神宮では木炭そのものが使われます。そしてそのいわれにも仁仁岐尊に一度妊娠を疑われた木花咲夜姫が天津神の子であることを照明するために産屋に火をかけられた-というのではなく神宮秘史ではつぎのように伝えられています。
天仁仁杵天皇大神(あめににぎすめらみことおおかみ)の御代「天皇詔シテ皇后木花佐久夜姫命 産宮(うぼのみや)八尺四角の宮、全部カヤ造り、エンの下三尺二寸、全部ケシゴスミオツメその中真座定メ賜テ火中ニテ御安産二柱皇子産ム、皇后自身両手に二柱皇子を抱キテ火中宮より出(い)で達手(たつて)、天皇大神御前捧奉天皇喜ビ詔賜フ二柱皇族子火明命(ほあかりのみこと)後改火火出見命(ほほでみのみこと) 火須勢理命(ほすせりのみこと) 御名付給イ-(後略)
また深湯祭は、一般には応神天皇の御代弟の讒言(ざんげん)を受けた竹内宿禰が磯城川の浜で探湯して勝ったとか、天皇の御代多くのものが姓氏を詐争したのでその白黒をつけるため探湯させたとか、単に熱湯の中に手を入れ神裁(さばき)をうける神事のようにいわれていますが、神宮の探湯祭は熱湯を笹束でかぶり、舞いちらすものですし、鳴動祭も吉備津神社でおこなっているような鳴動の有無で吉凶を占するという単純なものでなく、神宮では男釜(おがま)、女釜(めがま)に必ず降神賜りそれぞれ公事と私事の諸願を祈念するものであります。
秘史では「角織天皇大神(つのぐいすめらみことおおかみ)自身祭主(中略)大神宮大前、御食造(みけつくり)御鳴動祭主、皇子角織草木根主命(つのぐいくさきねのしみこと) 阿曽女豊穀姫命(あそめとよこくひめのみこと) 豊穀繁姫命(とよこくしげひめのみこと) 探湯祭主皇子大海川姫命(おおうみかわひめのみこと) 鎮火祭主皇子野山倉頭男命(のやまくらかしらおのみこと)(中略)鎮火祭上下五色人万億大難禍除、禍敵全滅亡、諸病平癒、身体健康、長寿安産、安全子養祭ル、探湯祭諸々生霊死霊万害窓敵引マキクシザシテ抜イ禍難ヲ滅亡、家地神殿八方清メ上下和合安泰平安祭、御鳴動祭、諸々願成就ス、五穀成就、大長億吉事兆兆勝倍神力添和合立身無窮、家運長久神助天然神力添守祭(後略)